【長曽祢虎徹】最上大業物に分類された名工

長曽祢虎徹は、新選組局長・近藤勇が池田屋事件の際に使用したことで知られています。
虎徹には贋作が非常に多く、近藤のそれもまた贋作だろうという意見が多いのですが、現実問題として、池田屋での激しい戦いを経ても近藤の虎徹は折れも曲がりもせず、スルリと鞘に収まったといいます。

虎徹はいつ頃、誰が作った刀?

null

虎徹は江戸時代の刀工・長曽禰興里(ながそねおきさと)によって作られた刀です。

長曽祢興里は石田三成のお膝元である佐和山城下で生まれました。まだ幼い子供の頃に関が原の合戦が起こり、佐和山城が落ちたため、金沢へと逃れたそうです。
大人になってから興里は、金沢で名の知れた甲冑の名工として活躍しますが、天下に太平が訪れると甲冑の需要が無くなり、50を過ぎてから刀工へと転身し、江戸へ移りました。
50歳から始めて、「身刀最上作」「最上大業物」といわれる刀を作るのですから、ものすごい才能ですね。

ちなみに興里の刀作の師匠については、和泉守兼重だったのではという説があります。

新選組の藤堂さんの愛刀「上総介兼重」は、ご落胤の証?

興里の師匠として知られる和泉守兼重には、他にも上総介兼重という有名な弟子がいます。
上総介兼重は伊勢津藩藤堂家のお抱え刀工でした。

かの有名な新選組八番隊組長・藤堂平助の出自が「伊勢津藩主・藤堂和泉守高猷のご落胤」だと言われていたのは、藤堂平助の愛刀が上総介兼重だったからです。
上総介兼重は、本来であれば一介の素浪人に過ぎない平助が持てるはずなどない名刀です。
これを所持していたことは、彼が遠い国のお殿様のご落胤だったのではと思わせるに十分な根拠となりえました。

近藤が信じたのは、虎徹の名よりその実力!

近藤勇は、京都で新選組として活動し始めるまでは、江戸で貧乏道場「試衛館」の主をしていました。

黒船襲来以来、日本の世情はどんどん不穏さを増し、京の都では天誅と称した暗殺事件が多発していたその頃、近藤たち試衛館の面々も日本の未来を憂い、国のために働きたいという思いを募らせていました。
しかし、身分が低い彼らには、その志のために働く場所がありません。
超一流の剣の腕を持ちながらも、それを発揮するチャンスが無かったのです。

そんな鬱屈した日々を送っていた近藤に訪れた転機が「上洛する将軍警護のための浪士隊」への応募でした。

これをキッカケに近藤は道場を畳み、上洛。
そこから彼の新選組局長としての戦いが始まります。

近藤が虎徹で戦ったという池田屋は、新選組史の中では比較的早い段階で起こる事件なのですが、初期の新選組にはお金が全然ありませんでした。
当時の近藤に虎徹のような高価な刀を、果たして買うことが出来たのかどうかと考えると、実際はかなり難しいのかもしれません。
しかも虎徹は、その人気ゆえ贋作が非常に多く出回っており、「虎徹を見たら贋作と思え」とも言われるほどでした。

自分の虎徹が贋作である可能性について、近藤とて考えなかったわけではないでしょう。

けれど、池田屋を戦い抜き、他の隊士の刀が折れたりボロボロになったりする中、近藤の虎徹は折れも曲がりもせず、見事近藤の信頼に応えました。
真作であろうが贋作であろうが、その実力こそが近藤にとっては最も大切で、最も信じるべき点だったのではないでしょうか。

生まれが武士であろうが農民であろうが、己の実力を信じて進むしかない近藤にとって、虎徹は良い相棒だったのかもしれません。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Evernoteに保存Evernoteに保存
スポンサーリンク
スポンサーリンク