【厚藤四郎】組み打ちに特化した、短刀の名手による鎧通し

厚藤四郎は現在、国宝に指定され東京国立博物館に所蔵されている短刀です。
長さが26.7cmと短刀の中でも特に短いにもかかわらず刀身が非常に分厚く、根元部分などは1.1cmもあるという特徴的な造りをしています。
この刀身の分厚さが、厚藤四郎という呼び名の由来です。

厚藤四郎はいつ頃、誰が作った刀?

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厚藤四郎は、鎌倉時代後期に活躍し短刀の名手と謳われた粟田口藤四郎吉光の作です。
組み打ちの際に、鎧の隙間から敵を突き刺すという用途で作られた剣で、こうした剣の事を「鎧通し」と呼びます。

組み打ちとは
取っ組み合い、接近戦のこと。

厚藤四郎の所有者たち

足利将軍家

厚藤四郎は元々足利将軍家に伝来する宝刀で、9代将軍・足利義尚が、長享元年(1487年)9月12日、六角高頼を討伐するため近江へと出陣した際にこれを所持していたという記録があります。

本阿弥光徳から一柳伊豆守直末

その後、どういう経緯で足利将軍家から流出したのかは不明ながら、厚藤四郎は一時期、堺の商人が所持していたそうです。
それを、刀剣鑑定や研磨で有名な本阿弥光徳が購入し、一柳伊豆守直末(ひとつやなぎなおすえ)に譲ったと言われています。

黒田如水から豊臣秀次、そして毛利秀元 へ

厚藤四郎は、一柳伊豆守直末の手に渡った後、直末の義兄にあたる黒田如水へと受け継がれます。

直末の妻・心誉は黒田如水の妹です

直末が如水へ直接献じたのか、それとも、直末が天正18年(1590年)小田原征伐で戦死した後、直末の妻・心誉と子供達が実家である黒田家に引き取られた際に心誉が黒田家に持ち込んだのか・・・。
そのあたりは定かではありませんが、黒田家に渡った厚藤四郎は、今度は豊臣秀吉に献上され、天正20年(1592年)7月、秀吉から毛利秀元に下賜されました。

黄金千枚と引き換えに徳川家へ

足利将軍家を離れてから、堺の商人、本阿弥光徳、一柳伊豆守直末、黒田如水、豊臣秀吉、毛利秀元と、実にさまざまな人々の間を渡り歩いた厚藤四郎ですが、寛文4年(1664年)、長門長府藩3代藩主の毛利綱元から、4代将軍・徳川家綱に献上されました。
毛利家には、徳川将軍家から黄金千枚が下賜されたといいます。

しかし、それでも厚藤四郎はひとつのところには留まれない運命なのか、その後も一橋家に渡った、田安家に渡ったなどの説があり、所在が落ち着くことがありません。

結局、昭和の始めごろに東京国立博物館(当時は帝室博物館)が買い上げ、現在に至ります。

流転の運命を辿った名刀は厚藤四郎に限らず東京国立博物館にたくさん所蔵されていますが、そうした刀たちは、100年後も東京国立博物館に存在し続けるのか、それともどこか別の場所にあるのか、その前に100年後にもちゃんと残っているのか…。

私達が生きる時間も、長い歴史の中から見ればごく短いひと時ですから、それを知る術はありませんが、やっぱり気になりますね。

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