【数珠丸恒次】日蓮が佩いた破邪顕正の剣

天下五剣の一つである数珠丸恒次は、現在、重要文化財に指定され、兵庫県尼崎市にある本興寺が所蔵しています。

数珠丸恒次はいつ頃、誰が作った刀?

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数珠丸恒次は、鎌倉時代の備中(岡山県)の刀工、青江恒次(あおえつねつぐ)によって作られた刀です。
青江恒次は鎌倉時代、後鳥羽上皇から御番鍛冶のひとりに選ばれた名工でした。

御番鍛冶というのは、鍛刀技術の向上などを目的に、後鳥羽上皇が召し出した12人の名工のことです。
御番鍛冶たちは月替当番で鍛刀を行いました。恒次はその五月番を勤めた刀工です。
ちなみに後鳥羽上皇は刀剣好きが高じて自らも鍛刀を行われたそうで、「菊の御作」、「菊造り」、「御所造り」、「御所焼」と呼ばれる上皇自ら鍛刀された太刀が、現代にも数振り残っています。

数珠丸の所有者たち

「南無妙法蓮華経」の日蓮宗、開祖・日蓮

日蓮は、鎌倉時代の仏教の僧侶で、日蓮宗の宗祖です。
「法華経こそが、お釈迦さまの真の教えである」
「国が乱れるのはそれ以外の邪法を人々が信仰しているからだ」
と主張したため、他宗派の僧たちから襲撃を受けたり、他宗派を信仰する権力者から政権批判とみなされ流罪に処されたりしますが、絶対にその主張を曲げず、日蓮宗を開きました。

数珠丸は、日蓮が甲州身延山へ入山する時、護身用にと信者・波木井三郎実長から寄進された太刀だと言われています。
日蓮がこれを「破邪顕正の剣」として柄に数珠を巻いて佩いたことから、数珠丸という名が付きました。

日蓮は数珠丸恒次を杖にしていた?

日蓮が「名刀数珠丸を杖として使っていた」という情報を散見します。
この一文だけを見ると、せっかく信者が日蓮の安全を祈って寄進してくれた名刀を、なんだか随分と粗末に扱うものだな…という印象を受けてしまいそうですが、実際は違います。

日蓮は山に入る際、険しい山道を進むにあたって寄進された守り刀を杖にして必死に進みました。
そうすると不思議と転倒せずに済んだ、という話だったのです。

しかも、杖に使ったという太刀は数珠丸とは別の太刀で、入山の三ヶ月ほど前に芳情一族の北条弥源太から寄進されたものでした。
ちなみにその太刀の銘は、三条小鍛冶宗近だったそうです。

消失、そして競売品の中から偶然に発見され、本興寺へ

日蓮の死後は、三遺品として身延山久遠寺に保管されていましたが、享保のころには消失しており、再び発見されたのは明治9年10月のことでした。

兵庫県尼崎市出身の刀剣研究家の杉原祥造氏が、某華族の競売の中から発見したのです。

杉原氏は当初、これを身延山久遠寺に返納しようとしましたが、なんと真贋で揉めて返納が叶わず、結局杉原氏の近所にあった本興寺へと奉納されました。
昭和25年4月13日、重要文化財に指定され、現在も本興寺の所蔵となっています。

鶴丸が消失する前、江戸時代初期には本阿弥光甫が数珠丸の拵を制作しています。
一説によると、久遠寺が鶴丸を寺から出したのは「廃仏毀釈」の嵐から鶴丸を守るために紀州家へと持ち込んだからだ、とも言われています。
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