【和泉守兼定】土方歳三所用や歌仙兼定で有名

和泉守兼定は、美濃の2代目兼定――通称・之定が有名です。

和泉守兼定は、いつ頃誰が作った刀?

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和泉守兼定は、2つの地域で受け継がれた刀工名です。
ひとつは美濃で3代、もうひとつは会津で11代続きました。

美濃発祥の和泉守兼定

美濃の兼定の発祥は南北朝時代です。
2代目の兼定は特に高い評価を受け、刀工としては初となる「守」を拝領したことから、和泉守兼定を名乗りました。
2代目兼定は通称「之定」と呼ばれ、これを使った歴史上の有名人には、細川忠興、武田信虎、柴田勝家、明智光秀などの大大名が名を連ねます。

会津の和泉守兼定

一方会津兼定は江戸から明治にかけて11代続いた刀工で、初代の会津兼定は美濃兼定の子孫でだとも言われています。
やはり代々会津藩の御用を務める名工で、11代目当主の古川清右衛門が文久3年(1863年)12月、朝廷より和泉守を拝領し、和泉守兼定となりました。
之定と呼ばれた伝説の刀工と同じ名を拝領した古川は、それを喜んだのか、重圧と感じて苦しんだのか…。

ちなみに、司馬遼太郎先生の「燃えよ剣」では、新選組副長・土方歳三が「之定」を使っていたとされていますが、これは完全な創作で、東京都日野市にある土方の生家で運営されている「土方歳三資料館」によると、土方歳三の愛刀は11代目の兼定の作によるものだということです。

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和泉守兼定の所有者たち

細川忠興の之定「歌仙兼定」は、手打ちにした家臣の数が由来

戦国武将・細川忠興の兼定には、歌仙兼定という号が付いています。
歌仙だなんてずいぶん雅な名だと思いきや、その由来は、忠興が手打ちにした臣下の数が36人だったことから三十六歌仙にちなんで名付けた…という恐ろしいものでした。
三十六家臣→三十六歌仙って、全く笑えないダジャレですね。

他にも、一振りで人の顔面が面でも落としたように削げたという薙刀を「面の薙刀」と名付けたり、気に入らない僧侶を斬って心が晴れたとして、斬った脇差を「晴思剣」と名付けたり、とにかく人間性とかネーミングセンスとか色んなものを疑いたくなる逸話がたくさん残っている細川忠興なのですが、そんな恐ろしい一面とは裏腹に、誰にも真似できないような情けの深さを見せることもあったのが、彼の不思議なところです。

例えば、千利休は忠興の茶の湯の師でしたが、その利休が秀吉によって切腹に追い込まれた時のこと。
それまで利休の周りにはたくさんの大名が群がっていましたが、利休の切腹が決まると、誰もが秀吉の不興を買う事を恐れ、潮が引くように利休の傍から離れていきました。利休が京を追放される日も、秀吉を恐れて誰も見送りには来られません。そんな中、忠興と織部だけが堂々と利休を見送りに出向きました。

また、妻(細川玉・洗礼名ガラシャ)の父・明智光秀が謀反を起こした時も、本来であれば玉のことは離縁して明智家に返すべきでしたが、忠興は、玉を幽閉するという措置をとりました。

玉にしてみれば、明智家とは古い盟友のような間柄であった細川家が父に味方してくれなかったばかりか、実家に帰ることも許されず幽閉されてしまったのですから、忠興を憎く思ったかもしれません。
けれど、結果として忠興のこの判断のお陰で、玉だけは光秀の血縁者の中で唯一、本能事後も生き延びることができたのです。
玉以外の明智家の親兄弟は、本能寺の変の余波で全員命を落としています。

また、信長の死後は領内に信長の菩提寺を建て、月命日には精進を欠かさず、領地が変わっても寺ごと移転させ、ずっと信長を弔い続けました。
忠興が75歳になった頃には、炎天下の中、京都から信長の墓所である大徳寺に焼香に行ったという記録も残っています。
半世紀以上の時が過ぎても、信長から受けた恩を忘れず、慕い続ける一途さと誠実さには物凄いものがありますね。

一度愛情を持った相手に対しては、とことんまで執着する人物だったようです。
愛着のない相手に対する冷酷さもとことんですが……。

土方歳三所用の11代兼定

和泉守兼定といえば2代目の之定がまず頭に浮かびますが、11代目にして和泉守の名を受け継いだ会津兼定の名を現代においてここまで有名にしたのは、これを愛刀として幕末を戦い抜いた土方歳三ではないでしょうか。

土方の兼定は、会津藩主・松平容保から下賜されたもので、土方はこれを京都での活動期間中はもとより、鳥羽伏見の戦いや戊辰戦争、果ては北海道五稜郭へと転戦する間も愛用し続けました。

土方歳三が市村鉄之助に託した愛刀・和泉守兼定は、今も日野にある土方歳三の子孫の方が運営する土方歳三資料館で保管され、歳三の命日の頃になると一般公開されています。

遺品として生家に届いた土方の兼定は、刃が零れ、柄糸が擦り切れ、これを帯びて過ごした土方の戦いの日々が、いかに激しく過酷だったかを物語るかのようだったといいます。

土方歳三の最期
土方歳三は、明治2年5月11日に亡くなりました。享年35歳。 馬上で戦闘を指揮している最中、敵の銃弾を腹部に受けての、討ち死にでした。 ここでは、土方歳三がどのようにして、この最期の日を迎えるに至ったのかをご紹介します。
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