【骨喰藤四郎】戯れに斬る真似をしただけで相手の骨まで砕いてしまった恐ろしい切れ味

骨喰藤四郎(ほねはみとうしろう)は、「恐るべき切れ味で、戯れに斬る真似をしただけで相手の骨まで砕いてしまった」という逸話を持つ名刀です。

ただ、国宝にも指定されているこの名刀が、本当に藤四郎吉光の作なのかは、実は疑問視されている部分もあります。

骨喰藤四郎はいつ頃、誰が作った刀?

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骨喰藤四郎は、一般には鎌倉時代の名工、粟田口藤四郎吉光の作だといわれています。
元は薙刀だったものが、磨り上げられて太刀になりました。

刀剣の鑑定家として名高い本阿弥家がこれを吉光作であると鑑定したと言われていますが、異説もあるようです。

骨喰藤四郎の所有者たち

骨喰は、源頼朝から大友能直に与えられ、足利家に献上された? それとも元から足利家のもの?

骨喰藤四郎は、源頼朝が家臣である大友能直に与え、足利尊氏の頃に大友氏から足利将軍家に献上された、という説があります。

大友氏から足利尊氏の手に渡ったとき、この薙刀にはすでに「戯れに人を斬る真似をしたら、相手の骨まで砕いてしまった」という逸話と共に骨喰藤四郎の号が付いていたのだとか。

しかし、この説には大きな矛盾があります。

頼朝は鎌倉時代初期の人物ですが、粟田口藤四郎吉光は鎌倉時代後期の人物です。
この薙刀が本当に吉光の作だとするならば 頼朝の時代には存在していません。

つまり、頼朝から下賜された薙刀であるという話か、粟田口藤四郎吉光の作であるという話のどちらかが嘘、ということになります。

また、1336年に起きた「多々良浜の戦い」で、尊氏がまだ薙刀の姿をしていた骨喰藤四郎を使用していたという記録もあり、それによると骨喰は足利家に代々伝わるものだったそうです。

松永久秀、将軍家から骨喰を分捕る

永禄8年(1565年)、「永禄の変」で松永久秀によって第13代将軍足・利足利義輝が攻め滅ぼされると、骨喰も松永久秀に奪われます。
しかし、骨喰の元の持ち主(?)であった大友氏から金三千両と引き換えに返却を求められ、久秀はこれに応じました。

金一両をいくらとして考えるかによって値は変わってきますが、10万円~30万円くらいと考えてざっくり計算しても3億~9億くらいの値段ですから、そりゃあ久秀も応じますよね。

この時の骨喰い引渡しの際に、ある不思議な事件が起きています。

骨喰輸送中、名刀を欲しがる竜神に襲われかけた!?

松永久秀から無事に骨喰藤四郎を受け取った大友家の家臣・毛利兵部少輔鎮実が、船で豊後に帰る途中、播磨灘で突然不思議な光を放つ船団に遭遇しました。
毛利兵部少輔鎮実は、松永久秀が骨喰藤四郎を手放すのが惜しくなって再び取り戻しに来たのだと思い、
「命ある限りこの刀は渡さん!」
と必死で怒鳴りました。
すると、その気合に散らされるように不思議な光も消えていったといいます。

後に、毛利兵部少輔鎮実は、この出来事について下記のように話したそうです。
「古来、優れた刀は竜宮に棲む竜王が欲しがるというが、それに遭遇したのかもしれない」と。

大友家から秀吉へ、そして徳川家へと渡った骨喰い、最後に行き着いた場所は・・・

一度は大友家に戻った(?)骨喰ですが、その後、今後は豊臣家へと献上されます。
この時、骨食い藤四郎は、磨り上げによって薙刀から太刀へと姿を変えました。

豊臣家が滅んだ後、骨喰は徳川将軍家の所蔵するところとなり、徳川将軍家が政権を返上した後は、新政府軍によって家督相続を許された徳川宗家の16代当主・徳川家達に受け継がれます。

徳川家達はこれを、豊国神社へと寄進しました。

豊国神社とは
豊国神社は豊臣秀吉を祀る神社で、豊臣家滅亡後、徳川家の命により廃絶へと追い込まれた神社です。
しかし維新後、明治天皇によって再興されることとなりました。

徳川家によって潰された豊臣秀吉を祀る神社を、徳川将軍家を滅ぼした明治政府が再興する、
徳川家が豊臣家から奪った名刀もまた、その神社へと寄進される・・・。

まるで、徳川家が握っていた政権も、元はといえば豊臣家から奪ったものに過ぎないのだという新政府による世間へのアピールのようにも感じます。
(まあ骨喰は徳川家が豊臣家から奪ったわけではなくて、大阪夏の陣の戦場跡から発見され、それが本阿弥家に届き、本阿弥家から徳川家に献上されただけなんですが)

豊国神社の再興は国費で行われたため、当初は骨食藤四郎も国有でしたが、後に正式に豊国神社に下賜され国宝となり、現在も同社で所蔵されています。

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